「名選手は、名指導者にはならない」
「自分の感覚で走りを教えても、その感覚は”普通”の選手には理解出来ない」
「特に長距離の場合、選手が走れない理由を理解するには相当な指導経験が必要」
それが定説であり、大抵のケースに当てはまるというのが常識となっている。
「こうすれば速く走れる」
「こういう動きをすれば記録は伸びる」
速く走れるようになるコツを教えようとしても、ほぼ、それは伝わらない。
何故なら、それ以前に”速く走れない理由”が解決出来ていないからだ。
速く走れる技術やトレーニングを教えるのは、ある意味、簡単。
マニュアルさえあれば誰でも出来ると言っても過言ではない。
しかし、その選手が抱いている「なぜ速く走れないのか?」を解決するのは難しい。
それを自分で考えられないから一流選手になれずにいるのは、選手自身が分かっている。
多くの元トップアスリートが間違えるのは、自分の経験を語れば理解されるという点。
芸能人を見るような目で見られているということは、距離感に大きな隔たりがある。
「いい話が聴けた」
「すごく為になった」
「〇〇選手に会えて嬉しかった」
そう思われているうちは、共感性は生まれない。つまり、心には届かない。
もうひとつ。指導者として箔をつける為に大学院に通う元アスリートが陥る失敗。
大学院で知識を得れば指導力が上がったという思い違いほど痛いものはない。
大学院に通いスポーツに関する専門的な知識を学んでも実際には何も変わらない。
指導現場に立てば、知識を教えるよりも先にやらなければならないことが山ほどある。
選手との信頼関係の構築。
選手自身の育ってきた背景の理解。
心の伸びしろがどの程度あるかの見極め。
そういう選手の内面を深く理解しなければ、どんな立派な言葉でも伝わらない。
どんなに有名な元日本代表選手の声であったとしても、選手の心には届きにくい。
選手自身が抱えている本当の問題や心の迷いを理解していなければ馬の耳に念仏である。
女子選手の場合、指導力よりも指導者の人間性を瞬時に察知してマウンティングする。
顔では「ありがとうございます、参考になります」と言っても内心は違う。
「そんなことは百も承知している」
「そうじゃないんだよ、そういうことじゃない」
「あなたはワタシの気持ちを何も分かってくれていない」
そんな風に心の中で思っている。
男子選手の場合は、もっと厄介である。
「それは、あんたの経験だろ。俺はあんたとは違う」
「俺が考えているのは、そんな単純な理屈じゃないんだよ」
「口先だけの言葉で速く走れるなら、とっくにやってるし…」
これが選手達のホンネであることに気付かないのでは信頼関係など生まれない。
大学院で学んだと自負する自信満々な指導者は選手の心の声を掴むことが出来ない。
「大学院に通い最先端の理論を学んだんだから、この知識を活かして選手を育てたい」
そういう気持ちがあるうちは、まず間違いなく指導者のやる気は空回りする。
選手には、にわか仕込みの知識をひけらかしているようにしか受け取られない。
学ぶことは大切だし、知らないより知っている方が役に立つことは多くある。
しかし、知識に頼った指導をするのでは、自分の経験が役に立たなくなる。
折角のトップアスリートとしての経験が活かされないのでは勿体無い。
知識と経験の両方をアスリートに必要な知恵として活かせば言葉に重みが生れる。
上から目線で専門知識を教えるのでは心に響かない。
昔の経験を語っても固く心を閉ざした選手には伝わらない。しかし…
ちょっとした知恵を授けるというスタンスの指導が選手に伝わりやすい。
選手の立場に立った指導が選手の心を掴むきっかけになるだろう。
大事なのは「こうやれば出来る」という指導スタイルからの脱皮。
「カラダのここをこういう風に動かせば、こういう風に走れる」
そんな難しい説明では、選手は理解出来ない。
その言葉で速くなるような選手は、よほどの素質がある選手だ。
大抵の選手は、その感覚が理解できない。その動きが真似できない。
だから、どんな元有名選手のランニング教室に行っても速く走れるようにならない。
「〇〇さんと〇〇さんのランニング教室に行ったけど記録が伸びない」
「色んな話を聞いて色々と試したけど記録は落ちている」
実際に、そういう声は良く聞く。だからこそ、目線を変えることが大事。
「やってもやっても出来ない選手」
「動きのコツが掴めない選手」
「真似が出来ない選手」
そういう選手を指導するという認識を持つことが分かりやすい指導へと繋がる。
世界の舞台で戦った経験は、百億円出しても得られない大切な財産である。
自分が経験してきたことを一般の子供から大人までに広く伝えることも大切なこと。
その言葉をきっかけにして競技力向上のヒントを掴んで感謝されることも少なくない。
ただ、一般の方から感謝されるのと実際にゼロから育て上げるのとは訳が違う。
伝えたいことを理解させる難しさは、実際に指導現場で教えなければ分からない。
更に言えば、普通の選手を教えるのとトップレベルの選手を教えるのは全く違う。
既にトップレベルの選手を教えて現状維持させてもそれは指導力とは言えない。
極論すると、選手は指導者がいなくても育つ時には勝手に育っていく。
選手が欲しいのは、技術の指導ではなく心の理解者である。
不安な気持ちを理解して寄り添ってくれる存在。
些細な心の変化に気付いてくれる存在。
同じ目線で悩んでくれる存在。
指導者とは、そういう存在であることを理解できれば選手の心を掴める。
指導者が自分の役割を理解できたら、選手は必ず結果を出してくれる。
現代風「名選手名指導者になる心得」として覚えておいて欲しい。
「自分の感覚で走りを教えても、その感覚は”普通”の選手には理解出来ない」
「特に長距離の場合、選手が走れない理由を理解するには相当な指導経験が必要」
それが定説であり、大抵のケースに当てはまるというのが常識となっている。
「こうすれば速く走れる」
「こういう動きをすれば記録は伸びる」
速く走れるようになるコツを教えようとしても、ほぼ、それは伝わらない。
何故なら、それ以前に”速く走れない理由”が解決出来ていないからだ。
速く走れる技術やトレーニングを教えるのは、ある意味、簡単。
マニュアルさえあれば誰でも出来ると言っても過言ではない。
しかし、その選手が抱いている「なぜ速く走れないのか?」を解決するのは難しい。
それを自分で考えられないから一流選手になれずにいるのは、選手自身が分かっている。
多くの元トップアスリートが間違えるのは、自分の経験を語れば理解されるという点。
芸能人を見るような目で見られているということは、距離感に大きな隔たりがある。
「いい話が聴けた」
「すごく為になった」
「〇〇選手に会えて嬉しかった」
そう思われているうちは、共感性は生まれない。つまり、心には届かない。
もうひとつ。指導者として箔をつける為に大学院に通う元アスリートが陥る失敗。
大学院で知識を得れば指導力が上がったという思い違いほど痛いものはない。
大学院に通いスポーツに関する専門的な知識を学んでも実際には何も変わらない。
指導現場に立てば、知識を教えるよりも先にやらなければならないことが山ほどある。
選手との信頼関係の構築。
選手自身の育ってきた背景の理解。
心の伸びしろがどの程度あるかの見極め。
そういう選手の内面を深く理解しなければ、どんな立派な言葉でも伝わらない。
どんなに有名な元日本代表選手の声であったとしても、選手の心には届きにくい。
選手自身が抱えている本当の問題や心の迷いを理解していなければ馬の耳に念仏である。
女子選手の場合、指導力よりも指導者の人間性を瞬時に察知してマウンティングする。
顔では「ありがとうございます、参考になります」と言っても内心は違う。
「そんなことは百も承知している」
「そうじゃないんだよ、そういうことじゃない」
「あなたはワタシの気持ちを何も分かってくれていない」
そんな風に心の中で思っている。
男子選手の場合は、もっと厄介である。
「それは、あんたの経験だろ。俺はあんたとは違う」
「俺が考えているのは、そんな単純な理屈じゃないんだよ」
「口先だけの言葉で速く走れるなら、とっくにやってるし…」
これが選手達のホンネであることに気付かないのでは信頼関係など生まれない。
大学院で学んだと自負する自信満々な指導者は選手の心の声を掴むことが出来ない。
「大学院に通い最先端の理論を学んだんだから、この知識を活かして選手を育てたい」
そういう気持ちがあるうちは、まず間違いなく指導者のやる気は空回りする。
選手には、にわか仕込みの知識をひけらかしているようにしか受け取られない。
学ぶことは大切だし、知らないより知っている方が役に立つことは多くある。
しかし、知識に頼った指導をするのでは、自分の経験が役に立たなくなる。
折角のトップアスリートとしての経験が活かされないのでは勿体無い。
知識と経験の両方をアスリートに必要な知恵として活かせば言葉に重みが生れる。
上から目線で専門知識を教えるのでは心に響かない。
昔の経験を語っても固く心を閉ざした選手には伝わらない。しかし…
ちょっとした知恵を授けるというスタンスの指導が選手に伝わりやすい。
選手の立場に立った指導が選手の心を掴むきっかけになるだろう。
大事なのは「こうやれば出来る」という指導スタイルからの脱皮。
「カラダのここをこういう風に動かせば、こういう風に走れる」
そんな難しい説明では、選手は理解出来ない。
その言葉で速くなるような選手は、よほどの素質がある選手だ。
大抵の選手は、その感覚が理解できない。その動きが真似できない。
だから、どんな元有名選手のランニング教室に行っても速く走れるようにならない。
「〇〇さんと〇〇さんのランニング教室に行ったけど記録が伸びない」
「色んな話を聞いて色々と試したけど記録は落ちている」
実際に、そういう声は良く聞く。だからこそ、目線を変えることが大事。
「やってもやっても出来ない選手」
「動きのコツが掴めない選手」
「真似が出来ない選手」
そういう選手を指導するという認識を持つことが分かりやすい指導へと繋がる。
世界の舞台で戦った経験は、百億円出しても得られない大切な財産である。
自分が経験してきたことを一般の子供から大人までに広く伝えることも大切なこと。
その言葉をきっかけにして競技力向上のヒントを掴んで感謝されることも少なくない。
ただ、一般の方から感謝されるのと実際にゼロから育て上げるのとは訳が違う。
伝えたいことを理解させる難しさは、実際に指導現場で教えなければ分からない。
更に言えば、普通の選手を教えるのとトップレベルの選手を教えるのは全く違う。
既にトップレベルの選手を教えて現状維持させてもそれは指導力とは言えない。
極論すると、選手は指導者がいなくても育つ時には勝手に育っていく。
選手が欲しいのは、技術の指導ではなく心の理解者である。
不安な気持ちを理解して寄り添ってくれる存在。
些細な心の変化に気付いてくれる存在。
同じ目線で悩んでくれる存在。
指導者とは、そういう存在であることを理解できれば選手の心を掴める。
指導者が自分の役割を理解できたら、選手は必ず結果を出してくれる。
現代風「名選手名指導者になる心得」として覚えておいて欲しい。