ランナーズ・ジャーナル JAPAN (Runners-Journal.Jp)

事実に基づいた「真実のコラム」を掲載しています。今だからこそ伝えたい「本当のこと」をありのまま伝えたいと思います。

2021年01月

記録の壁を破る 〜その1〜からの続き。

男子100mの9秒台、男子200mの19秒台、女子800mの1分台などは、この2年以内に壁を破る選手が複数人出てくる可能性がある。他種目も含めて東京五輪が近いタイミングだからこそ、日本記録が破られていない種目での記録更新が期待される。これまでと違う雰囲気が選手の背中を押す原動力になる。

”記録の壁”を破るヒントは、達成出来そうな記録の”更にその先”を見据えたトレーニングをすること。9秒台という漠然とした目標ではなく、より具体的な記録を目指すことが大事だ。例えば、100mなら9秒86〜9秒91、200mなら19秒90〜19秒95、女子800mなら1分56秒〜57秒をイメージしておくと、”一気にブレイクスルーする”可能性が高くなる。

「百分の一秒でもいいから日本記録を更新したい」という謙虚な姿勢は、精神的な気負いなくチャレンジできるという面ではプラス要因になるかもしれない。しかし、それでは、ビックリするような記録は出ない。爆発的な突破力がないとブレイクスルーは起きない。無意識に抱いてしまっている心の壁を取り払うのは簡単ではない。しかし、他者が聞いたら笑われるような高い目標を堂々と口に出して言える”心の余裕”と”タフさ”を身につけることが、不可能を可能にする最も大切な要因となる。

それにしても、春からレースが多すぎる。選手の体力を酷使し過ぎている。海外で行われているグランプリシリーズを日本で真似しても成果には繋がらない。そういうスタイルは、日本人には向かない。同じ筋肉を同じように酷使していては、同じような記録しか出ない。

例えば、停滞している種目のひとつに女子800mがある。現在のトップ3は、北村、塩見、川田であるが、塩見、川田の記録は、2分02秒〜04秒から殆ど動かない。現状のままでは1分台は難しい。塩見、川田の走りには、高校生の時にあった柔らかい動きがなくなっている。カラダから漲るエネルギーがない。全身のバネをフルに使って走っている感じがしない。勢いを感じないのだ。北村が2分00秒で走った時に見られた「しなやかな動き」と「力強さ」そして「カラダのキレ」がない。世界リレーでの塩見の走りは、どうみてもキレがない。どうして、そんな簡単なことに気付かないのだろうか不思議に思う。

「目の前に山があるから登る」のがアルピニストの”性(さが)”であるように、目の前に試合があれば選手は全力で走る。それが、国際大会や国内主要大会と位置付けされたものであれば、尚更、全力で臨もうとする。それをコントロールするのがナショナルチームの役目なのだが、どう考えても「使えるだけ使う」ようにしか見えない。春からカラダを酷使していない北村が、今秋に記録を更新する可能性の方が遥かに期待できる。ナショナルチームに入って言われるままに大会に出場していても記録には結びつかない。結局は、独自の路線を進むことが、”記録の壁”を破る一番の近道になる。


”記録の壁”というのは、一度破られたら一気に歴史が動いていく。日本人が一番理解しやすいのは女子マラソンだ。高橋尚子が2時間20分の壁を破って世界記録を樹立したのが、良い例である。

下記は、女子マラソンの世界ランキングである。これを見ると”記録の壁”がどのようにして破られて、歴史がどのように変わっていったのかが良く分かる。

<女子マラソンの世界ランキング> (2019.5.16時点)
  1.2:15:25 ポーラ・ラドクリフ      (イギリス:29:ロンドン:2003.4.13
  2.2:17:01 メアリー・ケイタニ―     (ケニア:35:ロンドン:2017.4.23
  3.2:17:08 ルース・チェプンゲティッチ  (ケニア:24:ドバイ:2019.1.26
  4.2:17:41 デベレ・デガファ       (エチオピア:28:ドバイ:2019.1.25
  5.2:17:56 ティルネシュ・ディババ    (エチオピア:32ロンドン:2017.4.23
  6.2:18:11 ラディス・チェロノ・キプロノ (ケニア:35:ベルリン:2018.9.16
  7.2:18:20 ブリジット・コスゲイ     (ケニア:25:ロンドン:2019.4.28
  8.2:18:31 ビビアン・チェルイヨット   (ケニア:34:ロンドン:2018.4.22
  9.2:18:34 ルティ・アガ         (エチオピア:24:ベルリン:2018.9.16
10.2:18:41 キャサリン・ヌデレバ     (ケニア:29:シカゴ:2001.10.07
24.2:19:46 高橋尚子           (日本:29:ベルリン:2001.9.30
37.2.20.43 テグラ・ロルーペ       (ケニア:26:ベルリン:1999.9.26
50.2:21:26 イングリッド・クリスチャンセンノルウェー:29:ロンドン:1985.4.21

イングリッド・クリスチャンセンから歴史が動き始めた。クリスチャンセンが女子マラソンの世界記録を近代的な記録へと飛躍させたのが1985年。今から34年前のことになる。2時間30分を切れる選手が、まだ数名しかいない時代、2時間21分という記録が出たと知った時には「そんな記録があり得るのか?」と衝撃を受けた。彼女が、マラソンの世界記録を樹立した翌年、5000m(14分37秒33)と10000m(30分13秒74)の世界記録も樹立している。クリスチャンセンの強さは、他を圧倒していた。今で言うなら、短距離のウサイン・ボルトの強さくらいのインパクトがあった。33年が経過している今日でも、彼女の記録は世界トップレベルで通用する。そんな、”とてつもない記録”と言われていたマラソンの世界記録を14年ぶりに更新したのが、ケニアのテグラ・ロルーペだ。「やっぱりアフリカ勢か。これから先もアフリカ勢が記録を塗り替えていくだろう。」と関係者は思っていた。しかし、2時間20分の壁に挑んだのは、今は亡き小出監督だった。

小出監督は、1970年代から女子マラソンで世界記録が狙えると真剣に考えていた。当時、千葉県立佐倉高校の教員だった小出監督は、それまで100mをしていた女子生徒に長距離への変更を言い渡した。当時の高校女子長距離種目は、800mしかなかったが、「800mを走る為には距離を踏まないといけない。だから、俺と一緒に走りにいくぞ!」と言って20㎞の走り込みをさせた。トコトコ・トコトコ、二人で何時間も走る。来る日も来る日も、それを繰り返した。道路工事をしていた作業員が「あの二人は、一日中走っているなぁ」と感心するくらい、二人でずっと走り続けた。そんな練習の甲斐あって、その生徒は、初マラソンで2時間41分33秒という当時日本歴代2位の記録を出すまでに成長した。その時、小出監督は、こう思ったという。

「高校生が限られた時間の中で練習をして日本のトップレベルになるなら、才能に恵まれた選手に練習を積ませれば必ず世界記録が出せる。世界で通用するのは女子マラソンだ。」

それから、20年後、小出監督は高橋尚子とともに世界記録を樹立した。

世界記録を狙うと宣言し、ベルリンマラソンを日本でも生中継で放送した。日本時間の夕方、日本国民はテレビにくぎ付けとなった。そして、宣言通りの世界記録樹立。日本国民は大いに盛り上がった。王者が王者であることを証明したレースとなった。

しかし、”記録の壁”を一旦破ってしまえば、後に続く選手はすぐに出てくる。高橋尚子が2時間20分の壁を破り前人未到の記録を打ち立てた1週間後。ケニアのキャサリン・ヌデレバが高橋の記録を1分以上短縮する2時間18分41秒で走ってみせた。記録というのは、そうして塗り替えられていく。

現在の世界記録である2時間15分25秒(ポーラ・ラドクリフ)も、やがて破られる日がくる。男子マラソンが2時間の壁を超えたら、女子マラソンも2時間15分を切る選手が間違いなく現れるだろう。そう遠くない未来に、そういう時代がやってくる。それが、日本人選手であって欲しいと願うと共に、小出監督のような「カタにとらわれない規格外の視野と夢を持った指導者」が現れることを期待したい。

日本長距離・マラソン界の歴史を作った最高の指導者

〜その3へつづく〜

<スポーツ推薦問題>

『スポーツの名門校にスポーツ推薦で入ると大学進学時に選択肢が与えられない』

これは、ある意味、事実であり、ある意味、事実でない見解である。

親や本人にしてみれば、三年間苦しい練習に耐えて頑張ったんだから大学は自分の希望するところに行きたいと思っているのだと思う。しかし、そもそも、それが間違っている。

指導者側から見ると本人の希望が通らなくて当然だと思える面もある。高校のトップ選手であっても、自分のことを客観視して冷静に分析理解している選手は少ない。

三年間指導してきた指導者は、家庭で親に見せない生徒の真の姿をリアルに見てきている。生徒一人一人の特徴や性格、取組姿勢を細かく見ている指導者は、自分が行かせたい大学ではなく、その生徒が、四年間続けられる大学、レギュラーになる可能性がある大学、練習のスタイルが合っている大学を冷静に見極めて「お前には、この大学が良い」と言っている。純粋に生徒の可能性を見極めて判断している。そこには、私利私欲は無いはずだ。

もっと基本的な話をすると、高校にスポーツ推薦で入学した時点で、高校三年間を学校と指導者に委ねたことになる。一般受験をして入学した生徒よりも特別な待遇を与えられてきたはずである。散々、世話してくれた指導者が、「お前には、こことこことが良い」と言ってくれたなら、「ありがとうございます」と感謝するのが当然である。

スポーツ推薦で入学した生徒は、スポーツを通じて高校の実績と知名度アップに貢献するのが、与えられた待遇に対する責任である。大学進学の際も、高校には「大学進学実績」というものがある。学校の意向に沿った大学へ進学し「実績」を残すこともスポーツ推薦で入学した生徒に与えられた役割であると理解すれば文句など言えない。それが嫌なら、自分で受験すれば良い。

高校駅伝の名門校でも、高校サッカーや野球の名門校でも、自ら進路を選んでセンター試験を受験して大学に入っている生徒は沢山いる。自分で入りたい大学があるのであれば、自分の力で入ったらいい。それだけのことだ。何も大袈裟に考える必要はない。スポーツ推薦で入学した生徒を、そこまで甘やかしてはいけない。

それよりも、もっと酷い現状が、中学校の現場にある。

いち教員である部活の顧問が、独断で生徒の進路を決めてしまう例が、全国には沢山ある。「地元からは出さない。県外の高校には行かせない」と決めつけて、スカウトに来た高校のことを生徒や保護者に伝えなかったり、本人の意思を確認せずに、最初から門前払いをする顧問を良く見かける。

「俺が薦める高校へ行かなかったら、お前とは口をきかない」
「別の高校を選んだら、もう指導しないから部活に来るな!」
「俺の立場が悪くなることをするな!」
「俺の言うことを聞かないと承知しないぞ!」

そう言って、握りこぶしを見せる顧問もいる。こちらの方が大問題である。

スポーツ推薦で高校に入学した生徒の大学への進路選択問題以上に、義務教育下にある中学校の部活顧問による「パワハラ」の方が、遥かに大きな問題であることを知って頂きたい。



<丸坊主問題>

「金銭的な面で、お金が掛からないから、そうさせている」というなら理解できる。

しかし、丸坊主にするのが当たり前という固定概念とスポーツ界の変な常識で義務づけているのであれば、そんなものは、今すぐにやめるべきだ。

今の時代に、丸坊主にする利点を論理的に説明できる指導者がいるならして欲しい。

正当な理由など、ひとつも無いと思う。あるはずがない。選択肢のひとつとして、生徒自身が自らの意思で丸刈りにするなら、それでいい。しかし、「だらしがない、見映えが良くない。高校生らしくない」という理由なら、もう勘弁して欲しい。

「髪が長いとか短いとかを気にするくらいなら競技に集中させた方が良い」
「丸坊主よりも普通の髪型の方が、カッコイイのは当たり前」
「生徒が嫌がっているのに無理にさせるくらいなら、それが無駄な労力だ」

元高校の教員で全国優勝を成し遂げて、その後、オリンピックのメダリストを育てた人物の言葉が、全てを物語っている。

高校駅伝、高校サッカー、高校野球など、全ての競技で丸坊主の選手が一人もいない大会が開催される日が来ることを期待したい。


 

高橋尚子さんが世界で初めて2時間20分を切ったのが、2001年。

その後、2004年に渋井陽子さん、2005年に野口みずきさんが2時間20分切りを達成。

現在の日本記録は、野口みずきさんがベルリンマラソンで出した2時間19分12秒。

その記録が今年の大阪国際女子マラソンで破られるのでは?!と話題になっている。

果たして本当に日本国内で2時間10分台の記録を日本人選手が達成出来るのだろうか?

プラス要素となるのは、周回コースであることとペースメーカー役がいること。

更にナイキ厚底シューズを履くことで後半の失速が大幅に抑えられる。

何よりもこのシューズの進化による強みは、選手にとって大きな力になる。

コースについては、通常のコースよりも圧倒的に走りやすくなると言って良い。

このコースで自己記録を大幅更新できないようでは、世界では通用しない。

周回を淡々と走れる走力とメンタルがあってこそ、世界の高速コースに対応できる。

「街をアピールする」

「観光名所を紹介する」

そんな宣伝目的のコース設定では、好記録は期待できない。

何も考えずにひたすら走りに集中できるコースだからこそ好記録が期待できる。

コロナ禍にある今、マラソン大会の開催には賛否両論がある。

盛り上がりも例年通りにはいかないだろう。

実況アナウンサーが叫べば叫ぶほど、視聴者・国民は、ドン引きする。

外出自粛を促しているのに街中を走り回るのでは、外出自粛のムードになる訳ない。

コロナ禍で大会を開催するなら今回のコース変更は当然のことだ。

寧ろ、ピンチをチャンスに変えたと言って良い。

緊急事態宣言に従って渋々周回コースにしたと考えるのは、間違っている。

今回のレース映像が「公開タイムトライアル」のように見えても全く問題ない。

その方が今の時代に合っている。その方が見応えがあるカッコイイレースになる。

日本国内で最も記録が出やすいコース設定になったことを大いに喜ぶべき。

「このコースなら世界の強豪と競り合える好記録が出せる」

そう自信を持って選手達には、日本記録更新にチャレンジして欲しい。


足の速さを決める要因は、ふたつある。

ひとつめは、カラダの使い方が上手なこと。

頭に描いた理想的な動きを実際に自分のカラダで体現する能力。

カラダを動かす為に必要な根本的な要素が深く関係している。

ふたつめは、独自の発想力を持っていること。

より良い方法を模索しながら解決策を見出す発想力が必要。

つまりは、親に依存せず自分で問題解決ができる力が求められる。

常にストップウォッチ片手にタイム計測をして毎回記録更新しないと厳しく叱る父親。

「この子は、私がいなければ力を出せないのよ」と言って子供の傍から離れない母親。

「私の食事しか食べられないし私の食事があるから貧血にならない」と言い切る母親。

自分の価値観で記録の良し悪しを決めて自分が納得いかないとひたすら走らせる父親。

そういう親の元で育つ子供は、高校生になる頃には走ることに興味がなくなってしまう。

自我の目覚めによって親の言いなりになっている自分に疑問を持つようになる。

社会性を身につけることによって理不尽なことを強要されてきたと理解する。

子供の時には通用した「ほら!負けるな!」という親の声は届かない。

世の中には、速い人が沢山いることに気付いた時には、もう遅い。

以前のように高いモチベーションを維持することは出来ない。

自分が他の人よりも速く走ることが出来たのは昔のこと。

今はもう、走れないし勝てないと痛いほど理解する。

それでも、まだ、親は子供の限界に気付かない。

子供を自分の所有物にして自分に都合よく利用する親からは一流選手は育たない。

それは、ジュニア選手を指導するクラブチームの指導者にも同じことが言える。

力が落ちていること。自信を失っていること。興味が無くなっていること。

それに気付かずに子供扱いをしたまま、ただガムシャラに走らせる指導をする。

その先にあるのは、絶望と挫折と諦めであることを近くに居て分からない。

子供が成長するに従い、夢と現実を理解するようになる。

親の夢を自分に押し付けているだけだったんだと気付く。

「もう陸上はやらない」

「自分でやりたいことがある」

「元々、陸上は好きではなかった」

中学卒業後、そう言って走らなくなる子供は少なくない。

とりあえず高校まで陸上を続けたとしても”その先”まで気持ちが続かない。

大学や実業団へ入ったのは良いが、全く記録が伸びずに活躍しないまま終わる。

それらは、すべて練習や環境、そして、指導者の問題ではない。

幼少期からの視野の狭さ意識の低さから生じていることが多い。

親が夢中になればなるほど将来の可能性の芽を潰してしまう。

親の夢の押し付けは、将来の伸びしろを奪ってしまう。

必要なのは、子供自身が自己を確立すること。

例え実業団選手になってからでも選手自身が創意工夫をしなければ結果は出せない。

依存心のある子供が将来日本のトップ選手になるには、余程の出会いがないと難しい。

足の速さを決める要因。

それは、親の影響下からの脱却と自己の確立次第。

足が速くなっていく自分の姿を自分自身がイメージ出来れば足は速くなる。

留まることなく溢れ出る夢があれば、果てしなく高い場所を目指して努力できる。

その上で夢を実現させてくれる熱心な指導者との出会いがあれば世界一も夢ではない。

小中学生は、日頃の練習で追い込めば追い込むほど記録は出る。

記録が出れば本人は勿論、指導者や家族は大いに喜ぶ。

地元の市内大会で「大会新記録です!」とアナウンスされたら周囲から称賛される。

陸上競技(トラック種目)は、速さを競う競技だ。速さを競って順位をつける。

記録を短縮することが目的であり、好記録を出せば評価される。

しかし、勘違いをして欲しくないのは、速いだけではダメだということ。

小中学生は、自分の能力以上にカラダが動いてしまうことがある。

勝つことの喜びと周囲からの称賛に気持ちがハイになり想像以上に記録が出てしまう。

ある大会で1位になった小学生に質問をした。

「走るの好き?」と聞くと「うん、好き、楽しい!」と答える。

「なんで楽しいの?」と聞くと「どんどん記録が出るから!」と答える。

当たり前の会話であるが、既に、ここで間違っている。

残念なことに、それは、いつまでも続かない。記録を追い求めると伸び悩む。

カラダが成長すれば、その動きは出来なくなる。同じ感覚で走れなくなる。

理由は、簡単だ。カラダが成長して大きくなることによって、別人になるからだ。

当然だが、小中学生の時と高校生になってからのカラダは、同じではない。

身長は伸びて、体重も増える。骨は太く長くなり、筋肉量は増える。

女子選手の場合、脂肪量が一気に増える。それが、正しい成長である。

カラダは成長しているのに、小学生の時と同じ動きのままでは、カラダは動いてくれない。

高校生になって伸び悩む原因の一つが、ここにある。

記録だけを追い求めていると将来伸び悩む選手になってしまうケースは多い。

しかし、記録よりもカラダの使い方を重視した指導を受けた選手は、大きく成長する。

小中学生に言いたいのは、「速ければ良いというものではない」ということ。

自分のカラダを正しく動かせなければ、成長過程でのカラダの変化に対応出来ない。

先ほどと同じ質問をした場合、「記録が出るから楽しい」と答えるのではなく

「自分の力を精一杯出せたから楽しい」と答えられる子供が、将来、伸びる。

「楽しさ」の根源を指導者や家族は、正しく理解して欲しい。

ただガムシャラにカラダを動かして速い記録を出して「楽しい」と思うよりも

自分のカラダを「正しく」動かして、将来の伸びしろをつくることを大事にして欲しい。

それは、他のスポーツでも同じである。

「楽しさ」の根源は、何かを考えて、「正しい」とは何かを意識した指導をして欲しい。

それが、将来の伸びしろに役立つはずだ。

「速い選手」より「正しい動きが出来る選手」の育成を指導者には、お願いしたい。


考える力を養う

根性論ではアスリートは育たない





こんなに体罰や暴言が注目されている時代に、未だに時代の流れに対応できないスポーツ指導者や教員がいる。

学校の危機管理への意識が高くなるにつれて、その手の行為をする教員には、何らかの”注意”が入っているはずだが、長年指導してきたスタイルは変えられないのだろうか。

例えば、駅伝の強豪校にしても、20年前と今とでは指導法が変化してきている。監督の世代交代が進むにつれて、力でねじ伏せる指導をする姿は殆ど見なくなった。一部の高校では、未だに監督が怒鳴り散らしている姿を見かけるが、恐らくそれも数年以内にはなくなるだろう。もう、そういう時代ではない。

体罰を受けた当事者が声を上げなくても、周囲で見ている他の部員が不快感や嫌悪感を感じたら、それは指導として適切ではない。一人の部員が怒鳴られたり殴られたりしている姿を横で見ている他の部員が精神的な苦痛を受けてPTSDを患うことは多々ある。一人を見せしめにして他の部員に威圧感を与える指導も、今の時代は認められない。何度も言うが、もう、そういう時代ではない。

「仲良しクラブ」にするという意味ではない。選手自身が自分達の目標達成に向けて責任を持って己を鍛えて向上するという意識を持つことが大事であり、それが出来れば、鉄拳制裁は必要ない。

また、今の時代と以前とでは、指導者が使う言葉の受け取り方は違ってきている。

”我慢”、”粘り”、”全力”、”積極性”などは、普通の言葉に聞こえるが、精一杯努力している選手には「もう十分我慢してるし、粘ってもいる。これ以上ないくらい全力は出している!」と言いたくなるだろう。また「積極的にいけ!」という監督の言葉が、逆にプレッシャーとなって自分のレースができなくなることもある。

「積極的にいけ!」という言葉には、二通りの解釈がある。ひとつは、選手の気持ちを察して、軽く背中を後押しする意味で使う場合。もうひとつは、指導者の見栄で「俺の選手は、こんなに凄いんだぞ!」と周囲へのアピールが入っている場合がある。特に中学校や高校の指導者に見られるのが後者だ。

頑張る気持ちがあり、好調だと感じたら、選手は自ら積極的に走る。それくらいの判断力は、日頃の練習で身につけている。いちいち監督から言われなくてもできる。

「もっと頑張れ!」
「死ぬ気でやれ!」
「負けたら承知しないぞ!」
「気を抜くな!」
「諦めるな!」
「もっと出来る!」

これらの言葉も、選手の精神状態によっては、精神論・根性論を強要する言葉になり得る。

高いパフォーマンスに必要な身体的な”強さ”と”技術”を身につけて、どんな状況下でも安定して力を発揮できるメンタルコントロール術が養われていれば、監督にガミガミ言われなくても選手達は全力を尽くす。それが、本来、目指すべき選手像である。

もうひとつ。どうしても違和感のある言葉がある。

箱根駅伝関係者が使う言葉として「その一秒を削り出せ!」というものがある。正直、この言葉も”根性論的なニュアンス”があり、抵抗感がある。「削る」とは、どこからどのように何を削るという意味なのか。この言葉を聞く度に、全力で走っている選手に対して「もっと、骨身を削れ」と言っているように聞こえてしまう。日本人が遺伝子的に持っていて、未だに払拭されていない年貢治め気質。「成果を上げるためには犠牲が伴うのも仕方ない。倒れるまで、もっと搾り取れ!」というニュアンスに聞こえてしまう。

根性だけではカラダは動かない。論理的な思考を持ってカラダを鍛えて、科学的な訓練によって、それを使いこなせるようになる。気持ちだけではカラダは動いてくれない。

箱根駅伝を目指す選手達に言いたい。一秒は「削る」のではなく「作る」のだと。

「諦めるな」という言葉もスポーツの世界では頻繁に使う。

①レース中に切れそうになる気持ちを切らさないために使う「諦めるな」。
②目標達成のために努力する気持ちを持ち続ける意味での「諦めるな」。
③長い年月を通じて将来の夢を捨てるなという意味での「諦めるな」。

その意味は、同じようで全く違う。表現的には、

①は、almost there という意味合い。
②は、You can do it という意味合い。
③は、don't quit your job という意味合い。

どの場合も、根性論ではなく明確な目的意識と達成願望、そして、周囲のサポートが必要だ。自分一人が努力しただけでは「諦めない心」は育まれない。

「諦めない心」は、何かに追い込まれるように外部からプレッシャーを掛けられて生れるものではない。「もっと頑張れ!もっと出来る!」と言われたから精神的にはギリギリの状態だけど、どうにかこうにか継続できているというものではない。

結果の良し悪しに関係なく、精神的に安定している状態で、それを継続することが心地良く思えることが大前提である。

良い結果が出ている時ほど基礎を大事にして次のステージに上がるための準備をする。記録や勝ち負けにこだわらない。思うような結果が出ない時は、他種目・他競技にチャレンジして、自分が行ってきたこととは違うカラダの使い方や楽しみ方を体験してみると良い。何かヒントになるものを掴めるかもしれないし、今までとは違った目線で自分を客観視できるようになるかもしれない。そういう目線が、アスリートには必要な時もある。

最後にまとめると、厳しさは必要だが、厳しさの強要からは何も生まれない。それを自覚して欲しい。

もし、1週間練習をフリーにして選手達に任せた時、選手達は、その1週間をどう使うかをイメージしてみれば、自分の指導が適切かどうか分かる。フリー練習の期間、選手達がダラダラしてしまうようなら、自分の指導力が無いのだと感じるだろう。逆に、自分達で練習計画を立てて課題を克服するために集中した練習ができたなら、選手達は自分の指導の意味を理解してくれていると思えるだろう。それが、指導者が目指すべき姿だと思う。

「怒られるからやる。怒られないようにやる。」では、選手は育たない。


それにしても、これは、酷すぎる。不適切な行為では済まされない悲し過ぎるニュース。このようなことが二度と起きないことを強く願う。

 

「アスリートとしての価値を高める」

これを教えている指導者が、どれだけいるだろうか。

実業団、大学、高校、小中学校、ジュニアクラブチームなどのコーチングスタッフからは、この言葉を聞いたことはない。

例えば、陸上が盛んな県の、あるジュニアクラブチーム。自分のクラブチームが、如何に凄いかに拘り、良い記録を出すことだけを教えている。まだ成長期にもなっておらず、骨格形成がなされていない小学生に「これが、科学的トレーニングだ。こんなのやっているクラブは他には無いんだぞ。うちのチームが一番進んでいるんだからな。〇〇中学とか〇〇高校は、教え方が下手だから記録が出せないんだ。」と言って胸を張っていっているコーチングスタッフ。

勘違いも甚だしい。教えることが逆である。

「今、君たちが良い記録を出しても、それは、殆ど意味がない。小学生時代の全国大会出場も将来的には役に立たないことを覚えておきなさい。今は通過点であってゴールじゃない。君たちが目指す舞台は、高校や大学へ入ってからだぞ。それまでにしっかりカラダをつくって、大きな舞台で活躍するのに必要な”カラダの使い方”と”心”を養いなさい。大きくなってから活躍する自分の姿をイメージして”自分の価値”を高めなさい。」

そんな風に指導するコーチと出会えたら、子供の将来は、大きく違ってくる。

 〇スポーツを極めることはギャンブルだ
 〇物事の価値を生むのは人が求める数だ
 〇思った通りに動く体の使い方を教える事
 〇自分がやっているスポーツの価値を教える事

アスリートの『キャリア教育』に必要なこと にも書いたように、「考える力」を養わないとアスリートとして大成はしない。ただ闇雲に練習をさせても、心とカラダの”伸びしろ”が、無くなってしまい、いずれ限界を感じてしまう。そうならない為にも、競技に対する考え方をジュニア期から教えることが重要だ。

小中学生、あるいは、高校生の時から教えなくてはならないこと。それは、記録を出すことでも、順位を争うことでもない。アスリートとしての価値を高める意識を持たせることだ。それが前提となって現役引退後のセカンドキャリアに結びつく。

今、教えるべきことは、何か。それを良く考えてジュニア選手の指導をして欲しいと願う。

才能とは、先天的に持って生まれたものであるか、後天的に養われたものであるか。

先天的である場合、才能は、小学生時代に開花するのか、高校・大学で開花するのか。

長距離選手の場合、メダリスト達は、社会人になってから才能が開花している。

短距離選手の場合、トップ選手は、中学・高校あたりから開花することが多い。

多くの親御さんから聞かれるのは、小学生で速い子供は、もう伸びないのか。という疑問。

もし、小学生の時に開花してしまった選手は、どうすれば良いのか。

そのまま、抜かれていく一方の人生を歩むしかないのか。

もう少し踏み込んで考えた場合、メダリストになるような能力を才能と呼ぶなら

中学チャンピオン、高校チャンピオンになった後、競技を辞めてしまう選手は

才能が無かったということになるのだろうか。

究極の見方をすると、才能ある親から引き継がれて才能のある子が生れ、育つ。

育つ過程で、正しい方向へ進むことができたら、才能は開花する。

しかし、環境や育て方を間違えてしまうと、持って生まれた才能は消えてしまう。

才能の価値を殆どの親は知らない。

市内大会で勝ったら「うち子には、才能がある」と思う親がいる一方で

全国大会で活躍しても「うちの子には、才能がない」と思う親もいる。

才能の有無の判断は、すべて親次第で決まる。

子供の才能を専門的な知識を持たない親の尺度で決めてしまうと

将来、開花する可能性があっても、それに気付かない。

日本には、埋もれている才能が、沢山ある。

それを見逃さず、埋れたままにすることなく、

「この子は、必ず、輝く」と信じて、可能性の芽を発掘して欲しい。

そして、未来の日本・スポーツ界のために活かして欲しい。

世界陸連のセバスチャン・コー会長のメッセージは明快だった。

「大会を開催できる唯一の方法があるとすれば、無観客開催」

「今は誰もがそれを受け入れると思う」

日本の政治家、組織委員会の面々が綺麗事を言うのとは責任感の強さが違う。

責任ある立場の者が言葉を発する時には、その言葉を受ける側の心を読むこと。

それをわきまえていれば言葉を間違えることはない。

責任ある立場にいる者が、当たり前のスキルとして持つべきことである。

しかし、残念ながら日本の関係者は、そのスキルを持っていない。

我が国の首相という立場にいる者でさえも、そのスキルを持ち合わせていない。

「五輪は必ず開催する」

本当に何も分かっていない。

五輪に臨むアスリート達が日々積み重ねてきたモノの大きさを理解していない。

今の時点で海外との接点を見いだせていない状況は異常である。

海外遠征が出来ない状態。海外合宿が出来ない状態。

海外選手を日本に呼べない状態。海外選手との交流が出来ない状態。

海外のトップアスリートと戦いレベルアップすることが出来ない状態。

五輪でメダルを獲得する為にベストな状態を作れない状態。

今現在、それが出来ていないのに何故「五輪開催は揺るがない」と言えるのか。

自分達の立場を守ることしか考えていない。

アスリートのことなどちっとも理解していない。

アスリートのことをバカにし過ぎていると言っても良い。

海外との往来が制限され、遠征が出来ていない状態で試合に臨めと言う。

今からの半年で通常の五輪と同じようなパフォーマンスを求めている。

アスリートを食い物にするようにしか見えない。

多くのアスリートが思うような練習が出来ていない状態。

それなのに「国民に感動を与えて欲しい」」と勝手なことを言う。

もし、東京五輪を開催するならアスリート達の健康と金銭的な保障をするべき。

アスリートのパフォーマンスは、無償提供ではない。

アスリートは、ボランティアで国民に感動を与えているのではない。

それぞれの生活があって仕事として競技を行っていることを理解するべき。

「人類が新型コロナに打ち勝った証し」などではない。

自分達の生活を懸けて、夢を懸けて、命懸けで自分の為に活動している。

政治家が自分達に都合よく政治利用するためのアスリートではない。

それを再度認識して五輪開催への覚悟を持って欲しい。

今年、東京五輪を開催するなら出場するアスリートへの金銭的な保障は不可欠。

例年以上のインセンティブを準備する覚悟はあるだろうか。

東京五輪を開催するなら十分な経済的援助をすると約束をして欲しい。

もう一度、申し上げておく。

アスリートのパフォーマンスは、無償提供するものではない。

コロナ禍で五輪を開催しアスリートを参加させるなら金銭的な保障をすべき。

まずは、そこをアスリートが東京五輪に参加する為の条件としたい。

今だからこそ発想の転換をしてチームの底上げに力を注ぐことも出来るだろう。

次世代のレギュラー候補選手育成に力を入れるチャンスだと考えれば遣り甲斐もある。

普段とは目線を変えた指導をすることで選手との信頼関係や絆が深まる絶好の機会になる。

「試合数が少ないコロナ禍だからこそ普段は目が行き届かない選手を中心に指導する」

「こういう時しかレギュラーメンバー以外の選手にスポットを当てた練習ができない」

「進路を決める為の実績を作る機会が無い分、力をつけさせてアピール要素を増やす」

「日頃は期待している眼差しを向けられない選手にも直接指導して期待してあげたい」

「この機会に主力選手を休ませて、BやCチームの選手達を丁寧に面倒を見てあげたい」

「力の無い選手にもチームの大切なメンバーであることを再認識させる声掛けをしたい」

そういう視点と思考を持って選手と向き合えば新たな発見があるかもしれない。

今の時代、部活動の顧問も多忙な学校生活を送っている。

基本的には、教員として学校業務に携わり、日々、忙しく「先生」をしている。

面倒を見てあげたくても限られた時間の中では、痒い所に手が届くような指導は難しい。

今の社会情勢は、発想の転換をするチャンスを顧問にも生徒にも与えてくれている。

変異種が猛威をふるう首都圏&大都市圏では、再び部活動が思うようにできない状態だ。

大きな試合は、次々にキャンセルとなっている。

試合があれば主力メンバーの為の練習をチーム全体で行う。

しかし、試合の目途が立たないなら、教えるべき相手は主力メンバー以外の選手達。

是非、普段は「腹を割って話をすることがない選手」と真正面から向き合って欲しい。

きっかけを失い、自信を失い、夢を失いかけている選手を再び輝かせる指導に期待したい。

走り込みという言葉を聞くと苦しいこと、辛いことというイメージを持ってしまう。

走り込みの概念が「根性練習」と錯覚してしまう土壌が日本の陸上界には存在する。

「走り込みをしないとマラソンは強くならない」

「持久力アップには、積極的に距離を稼ぐことが大事」

「長距離選手が強くなるには、どれだけ距離が踏めたか次第」

数十年前なら、その言葉を信じている選手は沢山いただろう。

監督の言われるままに40㎞や50㎞を来る日も来る日も走った選手は多い。

しかし、現在、マラソンで結果を出している選手の中には距離を踏まない選手もいる。

30㎞までの距離をレースペースで走る。それ以上の距離は踏まない。

その代わり、長い距離を走るからといってペースを落としたりなどしない。

10マイルを走るように20マイル走る。スピード維持力を身につける。

そこから先の力は、本番で出せばいい。シューズが助けてくれることも計算づく。

今の時代には、今の時代の走り方がある。今の時代のレース戦略がある。

カラダを痛めつけなくてもダメージを作らない高性能シューズがある。

故障のリスクを背負ってまで無理して走り込み練習をする必要などない。

「兎に角、距離を多く踏む。根性を鍛える。苦しさに耐える訓練をする。」

今は、そんな時代ではない。そんな練習をしても精神を鍛えることは出来ない。

ただ闇雲に距離神話を信じて沢山走っても期待するほど走力は上がらない。

逆に慢性疲労が蓄積してカラダが重く感じる。調子が上がらなくなる。

調子が上がらないのに更に走り込むから、どんどん調子が落ちる。

上手く走れないからバランスを崩したフォームになる。

それでも無理して走ると故障のリスクが上がるだけ。

走り込みに対してポジティブなイメージで走れる選手なら問題ない。

自分が好きで距離を踏み、楽しみながら数時間走るのは、全く問題ない。

リフレッシュ効果が期待できて調子を上げる目的なら定期的に行えばよい。

難しく考えないで、苦手意識を持たないで、ストレスを溜めないで走れるならよい。

歯を食いしばってカラダを揺らして走るような根性練習ではなく爽やかに快走する練習。

それが、今の時代に合った走り込みの定義であり、走り込みをする目的である。

高性能シューズの力を借りられる利点を活かして、これまでの常識を打ち破って欲しい。

選手だけでなく従来通りの指導を続けているコーチ陣の意識が変わることを期待したい。

「世界の情勢を見れば、東京五輪開催は、難しいだろう…」

そう言うことは、悲観的な見方だといういう論調。本当にそうだろうか。

寧ろ、極めて冷静に正しい目で世界の現状を把握しているのではないだろうか。

問題なく開催できる状況なのに「五輪開催反対!」と声を上げているのとは訳が違う。

五輪開催よりも先にすべきことがあるのではないか。

これから掛かる追加費用を救済に充てた方が良いのではないか。

明日を迎えるのに困っている人、今すぐ支援が必要な人々へ渡した方が良いのではないか。

ワクチン接種の目途も立たず、そのワクチンの安全性さえ担保されていない状況での開催。

「アスリートがやりたいと言っている!」

「アスリート達の努力を無駄にできない!」

「彼らの人生を大きく左右することを忘れるな!」

「五輪は、アスリートのモノ。アスリートファーストだ!」

「オリンピックの精神を尊重すれば中止などあり得ない。前例を作れない!」

いくらそう言ってみても、どんなセリフを並べても、虚しく聞こえる。

机上の空論を持ちだして五輪を強行開催した結果、世界中を揺るがす大惨事が起きたら。

誰が責任を取ってくれるのか。組織委員会の面々か。日本政府か。内閣総理大臣か。

悲観論を述べているのではない。

「どうして、そこまでして開催にこだわるのですか?」と問題提起をしているだけ。

建設的な意見として今を乗り越える最善策を皆で見つけようと声にしているだけ。

世界中のアスリートを大観衆が声援を送るスタジアムに迎えてあげたいだけ。

子供の頃の記憶を思い出して欲しい。

「あっ、お前、今、俺にバカっていただろう!」

「いいか。バカって言った方がバカなんだぞ!」

まさにその言葉をそっくりそのまま伝えたい。

「おまえ、今、五輪開催は難しいって言うのを悲観論だと言ったな!」

「いいか。それを悲観論だと言った奴の方が、悲観的な考え方なんだぞ!」


⑤出来るイメージを作る
大谷翔平選手が行っていた「目標達成シート」は、様々な分野で夢を実現させる方法として知られている。「今すべきこと」と「今後すべき課題」が明確になる。それによって遠回りをすることなく一歩ずつ着実に目標達成への階段を上がっていける。大事なのは、成功思考の構築。未来の自分の姿をイメージするから夢が持てる。成長した自分の姿をイメージするから、日々の地道な努力を続けられる。夢を実現した自分の姿をイメージするから、モチベーションを高く維持することができる。人から褒められて頑張ることも重要だが、何よりも大事なのは、自分自身に期待する心を育むことだ。自分が自分に期待しなくては、日々の苦しい練習に耐えることはできない。自分が輝く姿を誰よりも自分自身が楽しみにして、その瞬間の訪れを心の底から期待するから、ベストなカラダに仕上げる為に必要な厳しい節制にも耐えられる。最高の自分に仕上げるのは、簡単ではない。多くの犠牲を伴う。並大抵の努力ではできない。挫折してしまいそうになる時こそ、苦しさや辛さを乗り越えられる自分の姿をイメージすることでネガティブマインドをポジティブマインドに転換させることができる。「出来るイメージを作る」ことで気持ちが奮い立ち、上昇志向に換えることができる。日本記録を更新する。世界の舞台で活躍する。アフリカ勢や欧米の選手に競り勝つ。五輪のメダリストになる。それらは、待っていても掴めない。自分から行動して掴みに行かなくては永遠に掴めない。行動するための第一歩には、大きな勇気と自信が必要。見たことのない景色を観に行くのだから不安が無い訳はない。先が見えないことに挑むなど普通の選手にはできない。やる前から自分には出来ないと諦めてしまう。「究極の勘違い」をしている個性の持ち主でなければ見たことのない景色を観に行きたいとは思わない。「いつか必ず観れるはず!」なんて思わない。得体のしれない自信。「理由などない。よく分からないけど出来る気がする」という気持ちの芽生えがあれば、その選手は、夢を実現させることができる。理屈ではない。科学的な根拠など無くて良い。ただ、自分なら出来ると思えること。出来るイメージを作れたなら、その選手は、今まで誰も見たことのない景色を見ることができる。

有森裕子選手が、日体大からリクルートに入った時、「オリンピックに行きたい!」と小出監督に伝えたら、小出監督は「チケットを買えば行けるよ!」と答えたという逸話がある。今の田中希実選手や廣中選手のような実績がある選手が言うなら分かる。しかし、何の実績もない有森選手が堂々と「オリンピックに行きたい!」と言ったのだから、冗談でかわすしかなかったのかもしれない。有森選手が、何の実績も根拠もない時に、堂々と口に出して「オリンピックに行きたい!」と言えたことが何年か後にそれを実現させる原動力になったのだとしたら、頭の中で描いた「出来るイメージ」が、彼女を導いたのではないだろうか。他人には見えないものを見る力。イメージ出来ないものをイメージする力。その力を養うことが、次のメダリストを育てる一番の方法であると日本の指導者達へ伝えておきたい。

やはり、この人物は、国民に寄り添える首相ではなかった。

ただの政治家でしかなかった。そう思わざるを得ない。

日本は、勿論のこと、世界中が、かつてない非常事態に見舞われている。

過去の記事にも書いた通りに世界中の死者は、200万人にも達する危機的状況。

感染症の専門家によると新型コロナは、第4波、第5波と続き、第7波まで予想されている。

世界中でウィルスが変異していく。新たな脅威へと移り変わっていく。

「人類が新型コロナに打ち勝った証し」という言葉は、今は、まだ相応しくない。

適切な表現ではないことは、日本国民の多くは、既に理解している。

人類に平穏が訪れるのは、最低でも2~3年後だと予想されている。

国の最高責任者という立場でのポジショントークなのは理解している。

下手なことを言うよりも官僚が書いた文章を読めば痛手にはならないと思ったのだろう。

いやはや、なんとも国民感情に鈍感な最高責任者だろう。

世界中が危機的状況下にあるのだから、ありきたりの台詞では自分の評価を下げるだけ。

ひとことでもいいから、ここぞの台詞を自分の言葉で述べたら国民の心を掴んだはず。

官僚が作ったものでなく、本音で現状を語った方が国民の支持を得られただろう。

「人類が新型コロナに打ち勝った証し」という言葉は、NGワードである。

今、一番、言ってはいけない台詞であるのが、なぜ、分からないのか。

これを言った途端にゲームセットになるのが、なぜ、分からないのか。

知人の外国人ジャーナリストは、かつての日本を見ているみたいだと言った。

圧倒的劣勢な状況。あちこちで敗戦している状況下なのに勝利は近いと嘯く。

「我が日本国が、また勝利した」と嘘の放送をラジオから流し続ける。

「まだ戦える。勝利の可能性がある」と言い続けた担当大臣たち。

誰が、敗戦を伝えるか。誰が、責任を取って負けを認めるか。

まさに、今、それと同じ状況なのは肌感覚で理解している。

誰が「東京五輪開催は、今年も無理だ」と伝えるか。

誰が、言い出しっぺになって責任を取るか。

今、延期や中止を伝えたところで国民は反発などしない。

潔く受け入れる。いや、むしろ、感染のリスクが減って安心する。

やろうと思えば出来るのは、国民も理解している。

条件付きの開催ならやれるだろうと思っている。

しかし、そこまでしてやる意味があるのだろうか。

大観衆の中で最高のパフォーマンスをしてこそ「五輪」である。

開催国は勿論、世界中の人々が、アスリート達の戦いから勇気と希望を貰う。

人生の全てを懸けて全力で戦う姿から、生きる力の偉大さを感じる。

正々堂々と戦う姿から、真剣勝負する心の美しさを学ぶ。

奇跡の瞬間を目の前で見るから、感動に酔いしれる。

全ては、通常の形での開催によって齎される。

「やれる範囲」での開催に五輪本来の価値は見出せるのだろうか。

もう後には引けない状況などと言っていては前向きな意見は出ない。

今年小さく開催するよりも数年後に通常規模の形で華やかに開催をする。

そう割り切るタイミングが、今であることを政府と国のリーダー達は再認識して欲しい。

多くの方がご存知ないと思うが箱根駅伝に出場する大学の指揮官は心得ている。

箱根駅伝が齎す影響力を誰よりも知っているし、自分の言動が与える影響も理解している。

ちょっとした判断ミスが、自分に降りかかるリスクも十分に承知している。

<箱根駅伝が持つ影響力>
箱根駅伝で優勝すると翌年の受験者数が跳ね上がる。あれだけ大学名を連呼されるとテレビ中継を観た受験生とその親の脳裏に深く刻まれる。もし、受験生が箱根駅伝に出場している大学としていな大学で進学先を迷っていたら…箱根駅伝に出場している大学を選ぶ傾向があるのは、心理学でも裏付けされている。他のどのスポーツ中継よりも遥かに影響力がある箱根駅伝のテレビ中継。視聴率は、30%を超える怪物番組である。実況中継するテレビ関係者にとっては、ドル箱の有料コンテンツであるのは間違いない。テレビ局関係者だけではなく全てのメディア関係者は、それを知っているからこそ利用する。レース中に飛び出す各大学監督の「名言」は、新聞・雑誌の見出しとして活用される。陸上関係者だけではない。他のスポーツや一般の社会でも多分に活用される。その「言葉」を見出しにした本を出版したり、講演活動もできる。箱根駅伝での「名言」は、正直に言って「金」になる。だからこそメディアは箱根駅伝を利用する。監督達の言葉を使ってブームを起こし商用利用する。

<箱根駅伝出場大学を指揮する監督たちの素顔>
様々な「名言」を口に出している監督達には、それほど深い考えはない。純粋に陸上競技を愛している方々である。箱根駅伝に家族と共に一生を捧げている方々である。駆け引きなく真面目に箱根駅伝と向き合っている方々である。だからこそ、今回の「男だろ!論争」に大八木監督を巻き込んで欲しくない。大八木監督は、純粋に自分のことを慕って集まってくれた学生達と向き合っている。親代わりとして「男になれ!」と言ってくれているだけのことである。それ以上の意味などない。箱根駅伝選手を指導する監督達の本当の姿は、極めて単純で不器用な男たちである。頑固オヤジである。飾った言葉など用いないで心と心の会話をする、人の痛みが分かる、思い遣りのある人間である。それは、テレビコメンテーターとして広く認知され「今の時代に合った最先端の指導をする人格者」として扱われている青山学院大学の原監督も同じである。本来は、不器用でカッコイイことなど言えない「かけっこ大好きオヤジ」である。彼らは、箱根駅伝出場校の最高指揮官としての姿を演じているだけ。大学のプライドを背負って必死に走る学生達を支える唯一の理解者であり、学生達の希望であり、支えであり、その瞬間に何よりも必要な存在である。如何なる見識者であっても、そこには立ち入ることは出来ない。言葉の意味を理解することなど出来ない。理屈ではない。あるのは、4年間、親代わりになり責任を持って預かった学生達に「ここ一番の力」を与える愛情あふれる声掛けだ。莫大な資金を投じてテレビ中継をするのに値する「人と人との生き様」が、そこにあるから箱根駅伝は、97回も続いている。

多くの方々がご存知ないことがある。「箱根駅伝が特別なもの」的な立場で話をしている訳ではない。事実を述べている。前提条件としてそこにある背景を知らないが故にジェンダーやハラスメントを持ちだす。「箱根駅伝は、公共の電波を使って中継し、公道を使ってレースをして、視聴率30%稼ぐ国民的な番組。だから、箱根駅伝に出場している大学の監督には、一般社会のモラルを持って欲しい」と論じるのは、正しい見解である。正しい見解である反面、そこにある前提条件や背景を理解していない。

「男だろ!論争」を言いだした方々は、箱根駅伝の舞台に立っている学生達を一般の学生と同じように考えているのではないだろうか。中学・高校の部活動の延長。自分達が学生時代に汗を流した部活動と同じモノとして箱根駅伝を学生スポーツのひとつとして観ている。そもそも、その見識が間違っている。箱根駅伝は、中学・高校の部活動の延長線上には無い。箱根駅伝を走るのは、東京大学へ入学するのよりも難しいのをご存知ない。毎年、3000人近い学生が入学する東京大学。しかし、箱根駅伝には、毎年200人しか走ることができない。たった200人である。自分で選んで大学を決めて入学しても、その大学でレギュラーとして活躍できる保証などない。また、どんなに調子が良くても箱根駅伝選手登録時期に調子を合わせられないとチーム内選考を通ることもない。実力があるのは、勿論、運にも恵まれないと”あの舞台”に立つことはできない。限りなく奇跡に近い幸運に恵まれた学生が箱根駅伝で名誉ある校名を背負って走る。命懸けで陸上競技に打ち込み、命懸けで箱根駅伝を目指して何年も何年も努力してきた選手達が頼りにしているのは、両親でも家族でも友人でも中学高校の顧問でもない。4年間苦楽を共にして自分の成長を促し、見守り、背中を押してくれた監督のみである。その絶対的な信頼関係があってこその声掛けに見識者の一般常識を持ちだして論じて欲しくない。それが、当事者の本音である。「聴いていて嫌な気持ちがした」「自分が言われたら平気ではない」「女だろ!とは言われない」「職場で上司から同じことを言われたらドン引きする」。そもそもが間違っている。そう語る方々には、そういう師弟関係に恵まるチャンスがなかっただけのことである。そういう世界、そういう師弟関係を知らないのだから、理解出来なくて当然だし、正しく論じることはできないだろう。だからこそ、もっと温かい目で箱根駅伝に人生を懸けて挑んでいる「親子の会話」を聴いて欲しい。


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