<男子選手の分析>
MGCでの勝者は、中村匠吾選手と服部勇馬選手となった。「ラスト2㎞の走りは、素晴らしかった。これなら五輪本番でも期待が出来る」そう感じた国民は多かったと思う。しかし、五輪本番を見据えた時に、この二人が失速する可能性も高くなったのも事実である。今から約一年。今までの人生で感じたことのないプレッシャーを感じて生活をすることになる。調整の為のレースであっても、軽い気持ちで走ることなどできない。東京五輪代表選手として不甲斐ない走りはできない。故障もできない。メディアは、五輪が近づけば近づくほど大袈裟な記事を書いて騒ぎ立てる。本人の口からはメダルの話などしていないのに、わざと「誰々がメダル獲得も期待できると言っていますよ!」と話を振る。その感想として「そのように言って頂けて嬉しいです。本当にそうなったら嬉しいですね。」と答えたのに、翌日のニュースには、「〇〇選手、メダル宣言!」「メダル獲得を誓う!」などと大々的に掲載される。中村選手と服部選手は、これから何百回と「メダルを獲得したい!」言わされる。嫌と言うほど言わされる。お人よしの選手ほど、丁寧に答えようとして、その罠にはまってしまう。そして、自分を見失ってしまう。マラソンの日本代表と言っても、アジア大会や世界陸上は、それほどプレッシャーは掛からない。何故なら、注目度が低いから。しかし、五輪だけは、別格の扱いを受ける。ある元長距離選手が言っている。トラック種目での五輪参加の時と違い、マラソンでの五輪代表は、扱われ方が違う。最初の頃は、VIPのような待遇を受けて嬉しい気持ちになる。しかし、徐々に、その特別扱いが重荷に感じるようになる。受けたくもない取材を受けて、言いたくもないセリフを言わされる。「国民のため」というワードが重くのしかかってくる。今までの人生で感じたことのない重圧を背負う毎日が始まる。箱根駅伝の100倍、いや、1000倍以上の重圧を感じながら大会当日を迎える。海外の五輪なら、まだリラックスする機会がある。メディアが来ない場所を作ることができる。しかし、東京五輪には、「逃げ場」がない。すべての国民に見られている感覚を受けながら毎日を過ごす。五輪本番で、もし、失速した姿を見せて入賞すらできなかったら「一生の敗者」になることを中村選手と服部選手には、覚えておいて欲しい。五輪は、出場しただけでは意味がない。メダル獲得などの活躍をしないと数年後には自分の存在を忘れ去られてしまう。陸上競技に詳しいファンなら覚えていてくれる。しかし、国民は、すぐに記憶から消去してしまう。瀬古、中山、谷口以外の選手を国民が知っているかといったら殆どの国民は、名前を挙げられない。バルセロナ五輪で銀メダルを獲得した森下広一選手でさえ名前を忘れられている。その他の選手は、自分から五輪代表だったと名乗らない限り国民には分からない。「五輪に出場して何位だったんですか?」と問われた時に、返答に窮してしまう。12位とか20位とか言っても感動されない。それが現実である。その点、今回内定を貰えなかった大迫選手と設楽選手には、ここからのドラマがある。間違いなく国民に覚えられる選手になる。MGCファイナルチャレンジレースに出場して2時間5分49秒を切ったら、もう、それで国民のヒーローとして記憶に残る。五輪本番で好結果を残さなくても「よく頑張った!」と評価を受ける。国民は皆、味方についてくれる。しかし、1年間の準備期間がある中村選手と服部選手が、入賞さえできなかったら「1年も準備をする期間があったのに何やってんだ!」と言われ、「プレッシャーに負けた選手」「国民の期待を裏切った選手」となってしまう。これが、マラソン五輪代表選手の宿命である。中村選手、服部選手には、その自覚があるだろうか。両選手の指導者には、マラソン五輪代表の実績がない。自分が経験していないことを選手には教えられない。MGCで勝ったくらいで泣いてしまうような「ひ弱な指導者」では、五輪代表選手としての覚悟・宿命・その後の人生を教える事はできない。この時点で「参加するだけで満足」をしてしまっているのが分かる。あそこは泣く場面ではない。過去にメダルを獲得している選手を指導してきた指導者達は、選考会で勝ったからといって泣いたりしなかった。常に五輪本番での勝利を頭に入れていたので、そんなところで泣いたりはしない。皮肉にも、今のマラソン指導者の意識が低いことを「あのシーン」が証明してしまった。自分が泣いてどうする。東京五輪で活躍する選手、「本当の勝者」になるのは誰か?それは、今後のレースを見れば分かるだろう。大迫選手と設楽選手には、大きなチャンスがあると考えてよい。五輪本番を見据えた場合、自分達の方が有利な立場になったことを喜んでよい。勝敗を決める場は、MGCではない。東京五輪本番である。勝負は、これからだ。